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Fausto Talks Episode.2|進化は決して止まらない

進化は決して止まらない
ピナレロを率いるファウスト・ピナレロ氏が、これまでの自転車人生で象徴的なバイクに光を当てるドキュメンタリー動画「fausto talks」。エピソード2は、エスパーダの後継車として開発されたパリジーナ。その伝説のTTバイクを駆って97年のツールを席巻したヤン・ウルリッヒ本人も登場し、当時の秘話を語る。あまりに独創的だったそのフレームはUCIから一度は禁止されたというが、いかにしてツールを走ったのか。
劇的ドラマの名脇役

エピソード2は、エスパーダの後継車として登場し、オリンピックやツールで活躍したトラック/TTバイク、パリジーナ。それを語るために登場するのは、なんとヤン・ウルリッヒその人である。
ヤン・ウルリッヒ(以下ヤン):ティーンエイジャーの頃、私には素晴らしいロールモデルがいました。ミゲル・インデュラインです。彼のペダルの漕ぎ方、落ち着いた振る舞い、走りの軽やかさ、サドルに座っているときに背中から放出されるエネルギー……それらに私は魅了され、いつも彼のようになりたいと思っていました。彼がやることは何でも真似したくらい、ミゲル・インデュラインのファンだったんです。だから新型のTTバイクにまたがっている彼を見たとき、「ワオ!」と思いましたよ。「私もあんなバイクで、彼と同じレースに出場したい!」と。それはなにもかもが新しくて、自転車における革命だと感じました。
そのバイクは、エピソード1で取り上げたピナレロ・エスパーダだ。

ヤン:1996年、私はドイチェテレコムの一員としてツール・ド・フランスに出場し、初めてミゲル・インデュラインと一緒にレースを走りました。しかも、同じピナレロに乗って。それはもう、鳥肌ものでしたよ。
インデュラインが所属していたバネストも、ウルリッヒのドイチェテレコムも、ピナレロがバイクを供給していた。第20ステージ、いずれもワインの産地として有名なボルドーからサン=テミリオンまでの63.5kmで行われた個人タイムトライアルで、ヤン・ウルリッヒは優勝する。2位のミゲル・インデュラインに1分近くの大差を付けて。
ヤン:長い戦いとなった第20ステージ(個人TT)で、私のアイドルを2位にしたのは、私自身だったんです。それは、自転車人生の中で最も素晴らしい経験の一つとなりました。
その96年ツール、前人未到のツール6勝が期待されたミゲル・インデュラインは徐々に後退し、翌年に引退を表明。ウルリッヒは22歳の若さで、総合優勝を遂げたビャルヌ・リースをアシストしながら総合2位に入る。「世代交代、そして新星現る」の瞬間だった。そんなドラマの名脇役を演じたのが、光の街に生まれ育った女性「パリジェンヌ」をイタリア語で言い換えた“パリジーナ”だ。
パリジーナ、97ツールへ
ファウスト・ピナレロ(以下ファウスト):94年に完成させたエスパーダの後継バイクとして作ったのがパリジーナです。パリジーナを設計したのは、エスパーダを設計したチームと同じでした。私と、エンジニアのマルコ・ギアキ、ビルダーのエルヴィオ・ボルゲットです。カーボンの成形で有名なベルコ・アヴィアなど、協力してくれたサプライヤーも同じでした。
ダウンチューブがないエスパーダに対して、パリジーナはトップチューブを抜いた形状をしている。2車の空力学的アプローチは大きく異なる。
ファウスト:パリジーナのこの形状には、ライダーの脚によって生じる乱流を抑制するとう理由がありました。
マルコ・ギアキ(以下マルコ):「ライダーの脚の間の要素をできるだけ取り除くこと」。パリジーナはそんなコンセプトから生まれたんです。そうすることにより、空力性能を改善できると考えたのです。だからダウンチューブとシートチューブをできるだけホイールに近づけました。そうすれば、ライダーの脚の間にはなにもなくなりますから。


ファウスト:脚の間の乱流を抑制するには、乱流の原因であるチューブを取り除く必要があると考えたのです。その結果、これまでのバイクとは違う、羽を広げた白鳥のようなフレームが誕生しました。

マルコ:そもそもパリジーナは、アトランタオリンピック(1996年)のトラック競技のために開発がスタートしたんです。だから最初の一台はアンドレア・コッリネッリ(イタリア出身の選手。主にトラック競技で活躍した)のためのトラックバージョンでした。
コッリネッリは、そのトラックバージョンのパリジーナで見事に金メダルを獲得している。

マルコ:それを受けて、97年にブレーキと変速機を装着したロードバージョンが作られました。97年のツール・ド・フランスに出場するテレコム、バネスト、カンティナトッロに供給するためです。まずトラックバージョンを作り、その効果が確認され人々に受け入れられたら、次にロードバージョンを作る―― というのが当時の標準的な流れだったんです。エスパーダもパリジーナも同じでしたね。ただし、そのときはまだパリジーナとは名付けられていませんでしたけど。

ファウスト:パリジーナのメインカラーはテレコムカラーでした。グラフィックデザイナーのマヌエル・ボタッゾ(様々なブランドでデザインを担当するグラフィックデザイナー。92年からピナレロ社でアートディレクターを務めている。ManuelBottazzoDesign)はいい仕事をしてくれましたよ。テレコム社のコーポレートカラーであるマゼンタを、フレームの上でスタイリッシュに表現したんです。彼は白い部分を覆うマスクを作成し、少しグレーで陰影をつけ、その後マゼンタを塗装しました。白、グレー、マゼンタはドイチェテレコムのコーポレートカラーですが、デザインはピナレロらしいものとなりました。

そして白鳥は……
迎えた97年のツール・ド・フランス。スチールフレームがまだ多く、メカは9速、タイヤはチューブラー、ウエアはダボダボ、ヘルメットを被っていない選手が大半という、そういう時代である。総合王者の座に付くのは、前年覇者のビャルヌ・リースか、ドイツチャンピオンジャージを着用する新星ヤン・ウルリッヒか――。
そんな注目が集まるなかでパリジーナは鮮烈のデビューを飾る……はずだったが、UCIとの間でひと悶着あった。
ヤン:ピナレロでレースができるということはとても誇らしいことでした。常に革新的なメーカーで、我々はベストなバイクを手に入れたと確信しました。そして97年、このドリームバイク(パリジーナ)に乗れることになったんですが、一つ心配がありました。UCIがこのバイクを認可しないのではないかと恐れていたんです。
ファウスト:それが現実になってしまいました。UCIは、パリジーナのレース出場に待ったをかけたのです。
96年のアトランタ五輪でコッリネッリが駆ったオリジナルバージョンのパリジーナには、フレームの後半、リヤホイール上部を覆うような小さなフィンが付けられている。エスパーダ後期モデルで採用された形状だったが、UCIはこれを「空力付加物」とみなしたのだろう。

マルコ:規則では、競技用バイクにはフェアリングがあってはならないと規定されていました。従来のフレーム(おそらく金属チューブによる溶接フレームのこと)であれば、そのルールに意味があったかもしれませんが、カーボンの時代になるとそれはもう意味を成しません。なぜなら、カーボンフレームにおいては構造体そのものがフェアリングのような形になっているからです。「技術に比べて規制が遅れていた」と言えます。技術が進歩し、エンジニアが新しいものを発明しても、当初の規制では追いつけないという事態が起こります。F1などでも同じようなケースがときどき見られますね(ギアキ氏はランボルギーニのF1チームでエンジニアとして働いていた)。
ファウスト:というわけで、97年ツールのプロローグ(個人TT)で、「このバイクはレースへの出走が許可されない」と言われました。フレームにテールフィンが付いていたからです。
そのプロローグでは、ウルリッヒもリースも、伝統的なトライアングル構造のTTバイクで出走している。
マルコ:パリジーナの場合は、後部のフィンの部分と、ホイールの上部の小さな丸み(おそらくフロントフォークのクラウン部分に付けられた、前輪を覆う小さなフィンのこと)が許可されず、「レースに出場させるなら、これらを取り除くこと」と命じられました。パリジーナをツールのタイムトライアルに出走させるためには、数日内にフィンの切除作業をする必要がありました。
ファウスト:我々はパリジーナを社に持ち帰り、フィンを切断し、再塗装しました。カットした切れ端はどこかそのあたりにありますよ。

その切れ端を手で弄びながら、ギアキ氏はこう語る。
ギアキ:それらのフレームは「凌辱されてしまった」と言わざるを得ません。カーボンフレームをカットしたら、その部分を強化しなければいけません。ともかく、そうしてパリジーナはレースで使われたのです。
情熱を注いで作り上げた我が子のような存在であるパリジーナである。この表現も無理からぬことだろう。

パリでワンツーを達成
そんな開発者たちの怒りと奮闘を知ってか知らいでか、ウルリッヒは快進撃を続けた。第10ステージ、250km以上の山岳コースで、ウルリッヒは、チームのエースであるリースだけでなく、ヴィランクやパンターニという名クライマーを置き去りにして、マイヨジョーヌを着用する。それは見る者全てに衝撃を与えた。結局、ドイツ人として初めてツールの総合優勝を成し遂げるのだが、その大躍進の総まとめとして、最終盤、遂にパリジーナが登場する。
UCIを納得させるための突貫作業を経て、シートチューブ後端が切り落とされたパリジーナは、7月26日、第20ステージの個人TTが行われるディズニーランド・パリへと運ばれた。パリジーナに乗れたのは、ビャルヌ・リース、ヤン・ウルリッヒ、アブラハム・オラーノという3人の選手のみだったという。
ヤン:最後の個人TTで私はパリジーナに乗ることができました。それは素晴らしいライド体験でしたよ。パリジーナは完璧な走りをしてくれて、このツールの中で最速のバイクに乗っているんだと実感しました。私は2位でタイムトライアルを終えることができ、そのおかげで総合優勝できたのです。
ファウスト:1位はアブラハム・オラーノです。2位がヤン・ウルリッヒ。ビャルヌ・リースのパリジーナはゴールラインを通過できませんでした。彼は別のスペアバイクでゴールしたのです。
これがリースの有名な「放り投げ事件」。
ファウスト:軽量化のために、ビャルヌはパリジーナのフロントディレーラーを外し、そのかわりチェーンウォッチャーを取り付けていましたが、それは十分に機能せず、チェーンが2回も落ちてしまったのです。2回目のチェーントラブルあと、ビャルヌはバイクを草むらに放り投げたのです。
このシーンは空撮されており、全世界に中継された。アドレナリンが出ているレース中のトラブルとはいえ、怒りに任せてバイクを投げたリースの行動は、感情的に過ぎたかもしれない。作り手の一人でもあるファウスト氏は、この出来事を語るとき、やや険しい表情になっているように見える。

そんなことがありつつも、パリジーナは見事ワンツーを達成し、人々の脳裏にその姿を焼き付けた。それを開発するために膨大な額を支払ったであろうファウスト氏は、胸をなでおろしたかもしれない。
ファウスト:そのステージのあと、私はそのバイクを「パリジーナ」と呼ぶことにしたのです。パリのTTステージで1位と2位になったのですから。そして、ヤン・ウルリッヒは総合優勝を成し遂げました。
ヤン:それは驚くべき経験でしたよ。私は本当にパリジーナを気に入っていました。それはなにもかもが新しく、ピナレロは自転車界の先駆者となりました。私はそんなバイクでレースをさせてもらったんです。これほどの誇りはありません。

「次はなにができるんだ?」
ファウスト:パリジーナは、1993年のミゲル・インデュラインのアワーレコードに始まったプロジェクトの終焉を飾るバイクとまりました。1998年、レギュレーションによってこのようなバイクの使用が完全に禁止されてしまったからです。
マルコ:1990年代後半には、「ロードバイクは伝統的なチューブ構造によるトライアングルフレームでなければならない」というレギュレーションが出来ました。それにより、エンジニアのイマジネーションが活躍する領域が小さくなり、ロードバイクはエキゾチックな形状であることが許されなくなりました。しかし、技術の進歩を阻止することはできません。機材そのものはコンベンショナルなものになりましたが、ロードバイクは最後の一台まで進歩し続けるでしょう。

ファウスト:その規制が生まれた当初こそ、私たちはやや停滞しましたが、それでも革新的なことをしたいという欲求は消えませんでした。今では、CFDや3Dプリンター、形状自由度の高いカーボン素材などの技術を使えば、数年前よりはるかに進化させられます。「次はなんだ?なにができる?違うものを作ろう」という熱意がなければ、我々はラグドスチールフレームの時代から踏み出せなかったのです。
編集後記|サイクルジャーナリスト・安井行生
UCIのレギュレーションが厳しくなった現在では、このような形状のバイクは決して作られることはない。ロードバイク/TTバイクは、レースのための乗り物。レースに出られなければ、存在する意味がないからだ。
規制より作り手の意識が先行していた90年代に行われたエスパーダ~パリジーナという一連の技術的チャレンジは、規制という名の蓋によって終止符を打たれ、直接の後継機種は生まなかった。しかし、「どんな状況であっても、どこよりも速いバイクを作ってやる。それを誰も止めることはできない」という熱い自転車野郎たちの気概を社内に残した。後になって、それは歴代のプリンスやドグマをはじめとしたピナレロの躍進に繋がることになる。