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Fausto Talks Episode.5|ジ・アート・オブ・デザイン part1
ピナレロを率いるファウスト・ピナレロ氏が、これまでの自転車人生で象徴的なバイクに光を当てるドキュメンタリー動画「fausto talks」。エピソード5は、ピナレロの大きな魅力の一つである「美しさ」について。グラフィック、塗装、フレームの形状など、ピナレロならではの見た目の理由に迫る。新ロゴや初代ONDAフォークの誕生秘話も飛び出した。本編動画は24分を越える長尺なので、本コラムでは2部にわけてお送りします。
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ファウスト氏の挑戦

ファウスト:これは1981年に作られたバイクです。確か81年の4月か5月に我々が塗装を手掛けました。当時、私は兵役を終えて塗装の仕事を始めたところでした。「inoxpran red」と言われる色で、その頃「グループ1971」という自転車チームがあったため、ピナレロ社内では「red71」と呼ばれています。クリア層にアルミの粉末を追加した塗装ですね。

ファウスト:実はこのバイクは、ジョヴァンニ・バッタリンがジロ・デ・イタリアで勝ったときのものなんです。ハンドメイドのトリプルチェーンリングを付けて。もちろん市場にトリプルチェーンリングなんて存在しなかったときのことです。そして、この一台が「自転車を作ったり塗装したりすることが私の仕事になるだろう」と気づかせてくれたんです。自分が塗装したバイクが勝利を挙げるのを見たり、新聞やテレビに登場したら、それはプライスレスな経験です。そこで私は理解したんです。「おそらく私は自転車に関わり続けるべきなのだろう」と。

ファウスト:少年の頃は本当に勉強が嫌いでした。高校で勉強をしようとしましたが、落第してしまったので「他にやるべきことがあるので」と言って家業を継いだのです。父は大喜びでした。母に任せていたら、私はエンジニアになったり、学位を取ったりしていたはずですから。父はこう言ったんです。「彼はもう勉強したくないと言っている。ならば仕事をさせてみようじゃないか」と。当時、人手が足りていなかったのが塗装部門だったんですね。
そうして当時17歳だったファウスト少年は、家業であるピナレロ社の塗装部門で修業を始めることになる。
ファウスト:しばらくの間は、レース用のバイクではなく、普通のバイクの塗装をしていました。数カ月経ったとき、私は「もう十分だ。レース用のフレームをやりたい。レーシングバイクを塗らせてくれ」と言ったんです。当時は自分が何をしているのか、理解できていなかったんですね。18歳ですからね。未熟でしたよ。
現在は社の代表になったファウスト氏だが、今でも発売されるバイクのペイントとグラフィックはファウスト氏が目を光らせているという。数年前にインタビューをしたとき、「仕事の最初が塗装だったので、ペイントとグラフィックは譲れないところなんです。もう30年くらい一緒に仕事をしているマニュエル・ボッタッツォというピナレロのグラフィックデザイナーがいるんですが、ベースは彼に描いてもらい、私がいろいろアイディアを出しながら決めています」と語っている。この動画には、そのマニュエル・ボッタッツォ氏も登場する。

マニュエル:ピナレロ社の採用試験のとき、真っ赤なバイクを目の前に置かれて、「これをもっと美しくしてみなさい」と言われたんです。私はエアブラシを手に取り、紙のシートにこのグラフィックを描きました。それが採用され、私がピナレロに施した最初のデザインとなりました。そこからすべてが始まったんです。


ファウスト:当時のバイクのチューブはどれも真円で、どのブランドのフレームも見た目は非常によく似ていました。塗装で個性を出すことはそれほど簡単ではありませんでしたが、当然のことながら、プロを雇えば話は変わります。例えば、長年変わらないデザインをする古典的なデザイナーと、美術学校で学びセンスを磨いたデザイナーとは、まったく異なります。私たちには原材料(フレーム)があり、いいペインターもいました。そして幸運なことに、私たちにアドバイスをして、新しいグラフィックの作成を手助けしてくれるマニュエル・ボッタッツォが入社したのです。
2000年代前半まで、ピナレロはエアブラシを使った繊細で流麗なグラフィックをフレーム上に描いており、それがピナレロの魅力の一つにもなっていたのだが、それはマニュエル・ボッタッツォ氏の発案とセンスによるものだったのだ。間違いなくキーマンの一人である。
マニュエル:このようなグラフィックをチューブに描くには、現在使われているペイントガンではなく、エアブラシを使用する必要がありました。エアブラシを使いこなすには、高度な技術が必要です。1990年代は、チューブのごく一部にグラフィックを描くために、すさまじい労力を必要としていたのです。
マニュエル・ボッタッツォ氏が素晴らしいグラフィックを発案したとしても、立体的で細く複雑な自転車のフレーム上にそれを再現できる腕がなければ意味がない。当時のピナレロのフレームは、グラフィックを印刷したステッカーをペタリと貼るのではなく、塗装職人が一台一台エアブラシで描いていた。それは本当に素晴らしい作品だった。
ファウスト:自転車のペインターは芸術家であるべきです。ピナレロに在籍しているペインターは、世界中を探しても見つからないほどの腕を持っています。なかでも、ジャンカルロというペインターに出会えたことは幸運でした。数年前に引退してしまいましたが、彼は本当の芸術家でした。私は彼からたくさんのことを教わりましたよ。

ファウスト:美しいフレームを生み出すということは、みなさんが思っているほど簡単ではありません。ショップのウインドウを歩いて通り過ぎるとき、そこに飾られているのが好みではない色のドレスだったら、歩みを止めることはないでしょう。でも、もしそのドレスがすごく素敵な色だったら?あなたは立ち止まって、じっくりと眺めるでしょう。素敵な色がそこに存在しなかったら……なにも起きないのです。

新ロゴ誕生秘話
ファウスト:あるとき、レースで勝利する選手を新聞やテレビで見て、気付いたんです。いくつかのメーカーは、ヘッドチューブに印象に残るロゴがあることに。当時のピナレロ社のロゴは、すでに30年か40年ほど使われているものでしたが、印象に残るようなものではなかったんです。
マニュエル:アメリカのブランドとは違い、私たちイタリア人はこのような象徴的な紋章を持っています。しかし、イタリア以外のバイクメーカーは、私たちのものよりもはるかに簡潔なロゴで自分たちをアピールしていました。とはいえ、歴史を象徴するロゴを変えることは、非常に難しい仕事でした。当時のピナレロにとって、ヘッドマークを変えることはある種のタブーでもあったんです。しかし、ファウストも私も、テレビなどでは旧ロゴは印象に残りにくいと感じていました。そうして私たちは、ピナレロ社のロゴを一新することにしたのです。

マニュエル:そうして私は新しいロゴを考え始めました。思いついたものは、Pの文字が風で引き裂かれたようなものです。
ファウスト:マニュエルは、「P」の文字に3つの突起を加えたスタイリッシュなロゴを考えてくれました。私が3人兄弟であるという意味を込めたものでした。

ファウスト:マニュエルがロゴが描かれた小さな絵を持ってきたときのことはよく覚えています。
マニュエル:ファウストにこのロゴを見せると、ロゴを手に取って机の上に掛けて、それ以上何も言いませんでした。私は、彼はこの新しいロゴが気に入らなかったんだと思ったんです。
ファウスト:実は、最初はそれほど気に入らなかったんです。印象的で目に留まるロゴです。これは非常に重要な要素であり、その点においては成功でした。しかし、私は最初躊躇しました。「歴史を感じさせる部分は残したほうがいいのでは……」と思ったんですね。マニュエルが描いた小さな絵を私のデスクの上に貼って、朝に見て、夕方に見て、2日間ずっと見ていて、いつしか慣れてしまいました。新しい歌を聞くようなものですよ。何回か聞いていると、だんだんと好きになっていくものです。そうして数カ月ほど経ったあと、「よし、これでいこう」と決心したのです。

マニュエル:98年のミラノ~サンレモの前、ファウストは私に「この新ロゴをヘッドチューブに付けよう」と言いました。そこで私は新しいヘッドバッジを作りました。そのミラノ~サンレモで、エリック・ツァベルがピナレロで勝利を挙げたのです。
当時の映像を見ると、画質が悪いにもかかわらず、テレコムカラーのピナレロ・パリで集団スプリントを制したツァベルが両手を挙げてゴールラインを切る瞬間、新ロゴが燦然と輝いているのが見て取れる。
マニュエル:それは本当に素晴らしい瞬間でしたよ。

Episode.5 part.2へ続く。
editor / Yukio Yasui
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